まるで土嚢

おはようからおやすみまで土嚢

「おい、てめえ」

「あ?おい、てめえぜってえ殺すからな」
 
Kは僕の耳元で囁いた。
 
昔気質と言えば聞こえは良いのかもしれないが現代では全く通用しない指導方法の上司がいた。
 
彼は普段からそういう言動をする様な人間だという事は知っていた。
 
時には手を出す様な人間だった。
 
かと言って評判がめちゃくちゃ悪いかと言えばそういうわけではない。
 
なぜなら表面上はきっちり実績を上げて、対人関係も良好であったからだ。表面上は、だ。
 
ただ、ターゲットになるといつまでもネチネチという男がこのKという男なのであった。
あと若干頭髪が薄く、M字ハゲっぽい。
短髪のベジータだな。
 
きっかけはどうという事はない小さなミスが始まりだった。
 
そのミスが発覚して仕事終わりにKに呼び出された。
 
あ、ちなみにKは他の部下からはパパと呼ばれていた。蔑みの意味が含まれているかは分からないが何故かパパと言われていた。
 
そんなKに呼び出されることになった。
 
身も震える思いだった。
いや若干震えていたであろう。
あくまでも若干である。
いや、分かりやすく「僅か」という表現に切り替えておこう。
 
僅かに膝はガックンガックン震えていた。
 
しかしながら当時の私とKの関係は直属の上司というわけではなく、隣のデスクの上司なのであった。
 
そんな訳で、「終業後に俺のところまで来い」という様な事を言われていたのだが、そこで私の直属の上司が登場した。
 
「お前さっきKになんか言われてなかったか?」
 
はいそうです正に今彼にターゲティングされて多分今後ずっといや下手したら定年退職後までいやそれより死ぬまで、そう終身対応のK保険罵詈雑言株式会社死ね死ね支店支店長のKさんに死ぬまで死ね死ね言われる羽目になりそうですといった意味を含めて「先日のミスの件で呼び出されています…」と伝えた。
 
上司は「分かった」と一言。
続けて「俺も行くから任せとけ」
 
と言って、Kの元へ先陣を切ってくれた。
 
俺は嬉しさのあまり「その前にトイレだけ行かせてください」と言った。
 
ウレションである。
 
ウレションをご存知であろうか。
 
子犬などが嬉しさのあまりにおしっこを漏らしてしまう行動のことだ。
 
しかし生憎僕は大人なのでトイレで用を足してから上司とともにKの元へ向かった。
 
焦って手を洗い忘れていたのは内緒だ。
 
僕の上司は若いながらも業績は優秀であったため昇進も社内では早い方なのであった。
普段は朗らかで、いわゆる三枚目的な立ち位置の人間であった。
しかし、それ故に集中した時の顔は殺気立ったように真剣になる。
 
今まで以上に上司が頼もしく見えたのであった。
 
そしてKの元にたどり着き開口一番
「すみませんでした!!!!」
上司は頭を深々と下げていた。
 
か、カッコ悪い…
 
Kが「おう、もういいわ、気をつけろよ」と言ったのを聞いて2人で帰路についた。
 
帰り道。上司は言った
 
「こえ〜、漏らすかと思ったわ」
 
か、カッコ悪い…
 
「まぁ、あの人の方が年上だし、謝るしかないわな」
 
さっき僕が出したウレションを返して欲しいものである。
あ、やっぱりいらないわ。
 
「まぁ、でもああいう人にはサッと頭下げてあんまりくよくよしないのが1番だよ、どう頑張っても上司でも部下でも仲良くなれない人間なんて人生でたくさん会うんだから」
 
そう言われて人間関係で悩んでいた僕の心のわだかまりが解けた気がした。
 
「俺が頭下げて誰かが救われるんだったら俺は何でもするよ」
 
か、カッコいい…
 
この人に一生ついていこうと思った瞬間であった。
 
僕は思わず上司の手を握り握手をしながらお礼を言った。
 
その後部署移動によりKはまた遠くのデスクへ、しかしその後「パワハラ」の訴えによって左遷させられたという…
 
当時まだパワハラという言葉が浸透していなかった時代。
 
パワハラを受けていても、その後の会社内での身を案じ、我慢して包み隠さず言えない時代からの変遷期の話。
 
今、自らが言えないなら身近の人を頼ろう。
 
きっと誰かが助けてくれる。
 
そっと誰かが手を差し伸べてくれるはず。
 
そして上司と握手した時に手を洗い忘れていたのはまだ内緒なのである。
 
そんな時代の話。